住み慣れた家に永久の別れを告げたは、翌日早速にNGO本部を訪(おとな)った
  無論、ナターシャと同行である
  二人の更に後ろ、付かず離れずの所にはアレクサーがそれとは判らぬ様に随行し、常に二人の周囲を警戒し続けていた
  早春の凍傷に続き、が療養休暇を取るのは今回が二回目だけに、としては組織に対して非常に申し訳ない気持ちで一杯だったのだが、
  久々に対面したNGOのリーダーは実際の所、さして気に掛けてはいない様子だった
  一定期間の休暇を取るのは欧米ではごく当たり前の事であるし、しかもの休養は双方とも傷病に起因するのだから取得して当然、と言うスタンスであろうか
  今後ともナターシャと二人でコンビを組んで頑張って欲しい、と言われ、は心底安堵し重ねてリーダーに謝した
  …尤も、今回の療養休暇の真の原因が原因である
  リーダーやナターシャには本当の事が言えぬ分、としては情けない事に『夏風邪』と偽らざるを得ないのが非常に心苦しかった
  「まだ本調子ではないだろうから、任務再開は明日からで構わないよ」とリーダーは腰を上げ、とナターシャを面談室から送り出し、手を振るとまた部屋へ消えた




  「…あまり気にしなくても良かったみたいですね、さん。」


  久方のNGO本部を後ろに見つつ「家」への帰途に就くの横で、ナターシャは屈託の無い笑顔を浮かべた


  「…そうね、意外ではあったけど、ナターシャの言う通りそんなに気に病む必要はなかったみたい。
   でも、本当にもうこれ以上は組織に迷惑は掛けたくないわ。」


  正確に言えば、迷惑を掛けるような事態は起きて欲しく無い。……私自身ではどうする事も出来ない部分が多いのが正直悔しいのだけど。

  その一言を胸の裏(うち)で呟いて、はちら、と後方を一瞥した
  とナターシャの後方遥かにNGOの建物が遠ざかって行く
  自分たちと建物の間のどこかに、おそらくアレクサーは身を隠しているのだろう
  他人の『気配』と言う物を感知する事能わないには、アレクサーの正確な位置は判る筈も無い
  ――ましてや、そのアレクサーがカノンを警戒して己の『気配』を消している事などは、今更言うまでもない
  詰まる所、アレクサーが自分たちを見守っていてくれていると言うその事実だけで、は安んじて往来を歩く事が出来るのだ
  見えざるアレクサーに、は内心で深く感謝するのだった





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  翌日、NGOに出頭したとナターシャは新たな任務に従事する事になった
  ガルボイグラードの各所に、紫外線の強さを計る簡単な装置を設置して回る、と言うのがそれであった
  これまでも各所で紫外線の強さの測定は行っていたが、それはあくまでも一回切りの計測であったし、観測時間帯にも些かのばらつきが認められるのは否めない
  より正確を期すため、メンバーが計器を持ち歩く計測方法から方針を変更し、計器の方を固定して随時データを採取出来る様にする事にしたのである
  …無論、設置箇所には前以てNGO側から住人・所有者の了解を取り付けてある
  設置に当たり、念のために再度住人に挨拶と確認を取る程度の事は必要となるが、全体的に任務としての危険性は低い部類に入るだろう
  寧ろ、住人に挨拶をするのは男性よりも女性の方が適任であるだろうし、ナターシャが居る以上言語面のトラブルも起き難い筈だ
  部外者や通行人から見た場合にも、計器を設置しているのが女性である方が抱く不信感はより少ないと言うメリットもある

  リーダーから計器の説明と設置方法を一通りレクチャーされたとナターシャは、早速鞄に幾つかの計器と工具、更に地図を詰め込んで現地に向かう事にした
  …本部を後にする直前、はある事にふと気付いた
  折り良くリーダーが通り掛ったのを引き止め、はあくまでも無意識を装ってリーダーに一つ尋ねた


  「そう言えば、これまでは計器の方を持ち歩いてましたよね。私も持った事があるから思い出すんですが、あれって結構重かったですよね。
   でも、こっちだと小型だから軽くて良いですよね。」

  「そうだね。あれは据え置くには目立つ大きさだし、耐久性も今一つだから、持ち歩くしかこっちも使い方が無かったね。
   その点これは最新式だから、かなり小型化されている上に耐久性も抜群らしい。尤も、まだ僕は使った事はないんだけど。」

  「へえ、そうだったんですか。…でも、そんな最新式の計器、こんなに沢山設置するのでは購入費と維持費が大変な事になりそうですねぇ。」


  あくまでも会話の成り行きを装うために、はふふふ…と少し笑って見せた
  一見屈託無く見えるその笑いを疑う筈も無いリーダーはと同様に少し笑い、肩を軽く竦めた


  「上からの指示でね、突然多額の予算が出た様なんだよ。
   細かい事は僕も良く知らないんだけど、組織のスポンサーの一つからこの装置と、維持予算が提供されたらしい。」

  「と言う事は、そのスポンサーがこの装置を…?」

  「うん、どうやらそのスポンサーがこの装置を開発・製造しているみたいだね。
   …まあ、詰まる所、体の良い実験材料って事なんじゃないかな?どっちにしても、データが沢山取れるのなら、僕達としては大歓迎なんだけど。」

  「そうですよね。データは多ければ多い程…ですよね。本当に有難い話です。
   …と、ナターシャが待っていますので、では行って参ります!」

  「ああ、くれぐれも気を付けて。言葉が通じない時はナターシャに頼んで。」


  はい、と笑顔で返し、は背を向けると小走り気味に本部の建物を抜けた
  建物を出た所でナターシャと合流すると、は計器の入った自分の鞄を一瞥し歩き始めた

  ……このスポンサー、おそらくグラード財団だわ……!


  「待たせてごめんね、ナターシャ。よし、じゃあ早速最初のポイントに出発!」


  財団とNGOの繋がりを改めて確信しつつ、は鞄から地図を引っ張り出すとナターシャの前に広げて見せた





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  8月。ブルーグラードはまさに盛夏を迎えようとしていた
  北極沿岸部より多少内陸に位置するブルーグラードでは、8月の平均気温は珍しく10℃台に乗り、日によっては20℃前後まで上昇する事もある
  我々日本人の感覚からすると、北極沿岸は緯度が高い分、内陸部よりも通年で気温が低いイメージがあるかもしれない
  が、実際の所は地形学の問題で、南にある内陸部は確かに夏は多少気温が上がりはするものの、冬は沿岸部より遥かに冷え込む
  所謂、京都の様な『盆地』の気温分布だと思ってもらえば理解しやすいだろう
  従って、若干内陸部に位置するが故に『盆地型気温分布』に属するブルーグラードは、夏は沿岸よりもかなり暖かく、冬は逆に沿岸の人間が辟易する程の寒冷地となるのである
  今、こうして盛夏を迎えたブルーグラードでは薄着で街行く人々の足取りも軽い
  流石に半袖姿は見られないが、薄いシャツ一枚でも昼間であれば快適に過ごす事が出来るだろう
  とナターシャは今日も例の小型測定器を鞄に詰め街を闊歩しているが、この二人も例に漏れず薄いシャツ一枚の装いだ
  無論、帰りが遅くなった時や気温が急に下がった時の事を慮り、薄手の上着を鞄に携行するのを忘れてはいない
  …新たな任務に就いて早一ヶ月。随分手際も良くなって来て、今やその日の仕事の出来の良し悪しも判断出来るほどだ
  この日二件目の測定器取り付けを終えた所で、丁度昼食の時間になった
  取り付け作業終了時、施工先の老女の「うちで食べていかないかい?」との誘いを鄭重に断り、とナターシャは近くの公園で手弁当を広げていた
  この時期だけ顔を見せる芝生が、今は二人の緑のレジャーシートだ


  「芝生って、世界中どこでも育つものなのね。何だか意外と言うか…。」


  はバスケットからサンドイッチを一つ摘み、ナターシャに渡した
  朝方にが作っておいたそれは、ナターシャが好きな物ばかりが挟んである
  わあ…とナターシャが歓声を洩らし、に紅茶の入ったカップを手渡す


  「意外ですか?此処は夏の間はまだ気温が上がりますから、芝生も過ごしやすいんでしょうね。冬はやっぱり凍っちゃいますけど…。」

  「きっと、冬の間は雪の下で寒さに耐えて生きているのかもね、見えなくても。」


  …ブルーグラードの皆と同じに。
  はその一言は発しなかったが、傍のナターシャは十二分にそれを察したらしい
  自分の紅茶にジャムを少し落としながら、ナターシャは笑顔で頷いた


  「このサンドイッチ、ボローニャソーセージが挟まってておいしい!」

  「ふふふ、ナターシャ好きでしょ、ボローニャソーセージ。昨日沢山買って来て置いたから、明日もまた作っておくわね。」

  「わあ、ありがとう、さん。交代とは言え、いつもこうやって私の好きな物をお弁当にしてもらえて嬉しいです。まるでお母さんみたい。
   ………と言っても、私は母を憶えていないので『お母さんの味』自体、能く解らないんですけど…。」

  「…うん、私も自分がまだ幼児のうちに母が亡くなってるから、『お母さんの味』って今一つ解らないんだよね。私達、このあたりの境遇は一緒だし…。」


  話の内容自体は他者が聞けば相当に暗いのであるが、は然程暗くない表情で暫し考え込み、ポン、と突然手を叩いた


  「うん、そうだ!じゃあこれからは、ナターシャが作る料理が私の『お母さんの味』で、私が作る料理がナターシャの『お母さんの味』って事にしてみない?」

  「わあ、素敵!面白いですね。」

  「本当は、年齢から行くと私がナターシャの『お母さんの味』って事だけで良い筈なんだけど、ナターシャの料理の腕はかなりの物だから。
   だから、ここは一つ私の『お母さんの味』で宜しくお願いします。」


  ケラケラと珍しく声を上げて笑うを、ナターシャは心底、自分の姉とも母とも思うのだった
  …尤も、が自分の『義姉』になる日がそう遠くない事だけは、今のナターシャにもはっきりと理解出来ているのであるが
  二個目のサンドイッチに手を伸ばすに、ナターシャは軽くウィンクをしてみせた


  「ねえさん、知ってました?ボローニャソーセージ、実は兄の好物でもあるんですよ。」

  「ええっ!?それ本当なの?アレクサーってあんまり好き嫌いについて言及しないから気付かなかったわ。
   よし、じゃあこれからはバンバン使っちゃおう。えーと、ダとかオムレツとか…そうだ、スープも行けるわね。」


  指折り数えるの横顔があまりにも可笑しくて、ナターシャはクスクスと笑い声を洩らしてしまった
  夏の一時は、恐ろしいほど穏やかに二人の上を流れた





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  昼食後、更に3件の取り付け作業を終えた所で、とナターシャは任務終了の時間を迎えた
  …基本的に、ボランタリー精神が主幹のNGOの任務はきっちり何時に終わるべしと定められている訳ではない
  故に本人たちにその気さえあれば、それこそ真夜中まで仕事をしても誰も咎め立てはしない
  が、とナターシャの任務はその性質上、施工先が存在する
  まさか相手の常識から外れた時間まで敷地に立ち入って作業をする訳にも行かず、更に言えば二人が安全に帰宅する必要もあるため、
  本部への報告の時間も勘案した凡そのタイムリミットのような物を二人は決めていた
  この日は丁度、タイムリミットの手前で作業が一段落着いたため、とナターシャの二人は施工先の家族に挨拶を終えると本部への道程を辿り始めた


  「午後は結構街外れまで来ちゃったわね。この分だと本部に着く頃にはかなり日が落ちてるかもしれない。」


  は鞄にガルボイグラードの地図を戻しながら、細めた目で傾いた太陽を眺めた
  傍らのナターシャは、持参の上着をサッと羽織る


  「…そうですね。幾ら盛夏とは言え、何か少し冷えて来ましたし。」

  「まあ、でもアレクサーが付いているんだし、基本的にはそんなに心配ではないんだけれど。」


  地図と入れ替わりに、も鞄から上着を取り出してシャツの上に羽織った
  見えざるアレクサーの存在を頼もしく思いつつ、は残りの道程を少しでも楽しむ事に決め込んだ
  目を向けると、時折擦れ違うガルボイグラードの住人も、皆一様に上着を身に着けている
  日本の8月には有り得ない光景だ

  …そう言えば今頃は、日本では花火の季節よね。皆、浴衣なんか着て楽しんでいるのかなぁ…。

  徐々に翳る空を見上げ、は珍しく郷愁に駆られてみるのだった


  「ねえ、ナターシャ。ナターシャは花火って見た事ある?」

  「花火って…あの空に打ち上げる花火ですよね?」

  「あ…そうね。自分の手元でやるタイプのもあるけど、今私が言ったのは空にどーんと打ち上げる花火の事ね。」

  「実物は見た事無いです、残念ながら。ただ、テレビで何度か観た事はありますよ。綺麗なんですよね。」


  ナターシャは太陽と雲以外何も無い空を見詰め、小さく溜め息を吐いた
  は忽ち慙愧の念に駆られ、その表情を曇らせる


  「そうか…うん、変な事を訊いてごめんね、ナターシャ。」

  「日本では花火もきっと沢山やるのでしょうね。…とても豊かな国だと、兄から聞かされた事がありますもの。」


  の後悔を他所に、気に病む様子よりも寧ろ目を輝かせ、ナターシャはその様子を想像しブルーグラードの空に描いて見せた
  は暫く黙ってナターシャと平行に歩いていたが、ふと思い付いて顔を上げた


  「そうだ、いつか私達やアレクサーの仕事が一段落着いたら、三人で日本に行って花火を見ようよ!
   日本では、丁度今の時期にあちこちで花火大会をやるの。だから、夏の間にね。」

  「私が日本に……!?そんなの想像も出来なかったです。でも、さんの故郷を一度この目で見てみたい。…花火も!」

  「ふふふ、日本の夏は暑いから、きっとナターシャもアレクサーもびっくりするわよ。
   規模にも依るけど、花火って一時間も二時間も続くから楽しいと思うし。」

  「何時間も花火をやるなんて、やっぱり想像出来ないわ!…ああ、凄い。兄さんもきっとこの話を聞いたらびっくりしますよ。」


  盛大な花火と聞いてすっかり興奮したナターシャの横顔に安堵と親愛の笑顔を零し、が続けて口を開き掛けた、その刹那。
  バァァァン!
  突如、巨大な爆発音が弾け、続いてズゥゥゥゥゥン…と言う地鳴りが達の足元を揺さぶった
  揺れはたっぷり30秒ほど続いて一旦収まり、少し時間を置いて再度足元を掬った
  強張った表情のまま、呼吸も忘れて自分を支えていたは、二度目の揺れが収束した途端、その場にぺたりとへたり込んだ
  地面に着いた斜め掛けのバッグからは、ガルボイグラードの地図が顔を覗かせている
  ナターシャもに倣うかの如く、先程まで立っていた場所に中腰に屈んでいたが、これは恐らく咄嗟に転倒の危機を回避する目的で取られた行為であろう


  「地震………ではないわね。何かが爆発したような…。」

  「ええ、おそらくは。」


  揺れがもう来ないことを確認して、ナターシャは屈んだ姿勢から再度立ち上がるときょろきょろと周囲を窺った
  ――― 一般に、人間は視覚優位の生物であると言われている
  故に、視覚と聴覚をセットにした、所謂『共感覚』の実験を行うと、実に多くの人が誤った音源を感知してしまったりする
  例えば、画面で左から右へ自動車が走る映像を見せながら、一方で右から左へ自動車の移動音を聴かせた場合、ほぼ全員が『移動音は左から右へ流れた』と証言してしまう
  詰まる所、聴覚と言う物は実は意外に頼りない情報源でしかない、と言う事だろう
  …無論、視覚障害者の様に常日頃から聴覚を最重要感覚として生活している場合はこの限りではない
  爆発音があれほど巨大であったにも関らず、ナターシャはそれがどちらの方角からした物なのか計りかね、周囲を暫く見回した


  「…一体、何処で起きた爆発なのでしょう?」

  「私にも判らない。…けど、此処が街外れと言う事は、多分中心部の方角じゃないかしら。
   大きな音とは言え、鼓膜が破れる程では無かった。と言う事は、中心から少し向こうに行った場所かもしれない。」


  も立ち上がり、ナターシャ同様に周囲をくるりと見渡すとガルボイグラード中心部を振り仰いだ


  「もう揺れない所を見ると、連鎖爆発を起こすような類の場所ではないと言う事かしら。例えば、化学施設とか、工場とか。」

  「と言っても、ガルボイグラードには大学も工場も無いのですけれど……。
   二度目の揺れは建物のダメージでしょうか?」

  「…!!」


  名を呼ばれて振り返ったの後背すぐ傍に、アレクサーの姿があった
  おそらくは急いで走って来たのであろう、その肩が少し上下していた
  アレクサーはの身体を両の腕で抱き締めると、ゆっくり呼気を洩らした


  「ああ…君が無事で良かった。離れて警護する事が、これほどもどかしく感じられた事は無いよ。」


  ふう、と溜め息を落とした恋人に、は「ありがとう」と小さく囁いた後、クスクスと笑い声を洩らした
  眉間に皺を寄せ、アレクサーは少し身体を離すとを見る


  「…ナターシャも無事よ、アレクサー。」


  はっとしたアレクサーがの肩越しに視線を泳がせると、ナターシャのそれとぶつかった
  口を若干への字に曲げ、ナターシャは兄に向けて肩を竦めて見せた
  口こそ妙な表情ではあるが、その目元は笑いを堪えている様にも見える
  ナターシャは二人の方へ数歩距離を縮めつつ、気まずい表情の兄に言葉を投げ掛けた


  「…と言う訳で、私は無事だから、兄さん。兄さんも無事で良かった。」

  「あ…ああ、心配を掛けてすまない。」


  アレクサーの語尾に重ねて、とナターシャは堪え切れずどっと吹き出した
  すっかり困惑したアレクサーは言葉を失い、視線をその場に上げた
  アレクサーに取っては忸怩たるこの現状をやり過ごすため、暫くぼんやりと青空を見上げていたその視界に、何かが掠めた
  忽ちに何時もの鋭い表情に戻ったアレクサーは、とナターシャに上空の一点を指し示した


  「あれを見ろ、二人とも。」


  アレクサーの長い指の先に灰色の塊を見付けたが、あっと息を呑んだ
  ガルボイグラードの澄んだ蒼い空を汚し、一筋の煙が立ち上っている
  …そしてそれは、現在の風向きを考慮するに、街の中心部に当たる方角に間違い無かった


  「さっきの爆発音と同じ方角だわ。…やっぱり、街の中心部付近で爆発が起こったみたいね。」

  「…中心部の一体何処でしょうか?気になりますね。」


  とナターシャは、絶え間無く立ち上る煙を殊更にじっと凝視した
  最初は灰色だった煙は徐々に黒煙混じりになりつつあり、筋もより太くなって来た


  「…どうやら、爆発を起こした建物が本格的に燃えているようだな。」


  先程の二人の会話を聞いていた訳ではないだろうが、アレクサーも一つの可能性に言及した


  「爆発は一度きり。二度目の揺れは建物が崩壊した時に伴う物と見て間違い無い。
   …つまり、被害に遭ったのは一般の施設。そしておそらくその原因は………。」


  総てを語ろうとしないアレクサーに代わり、が厳しい表情で一言付け加えた


  「……テロ、ね。おそらく。」


  互いの顔を順に確認し、三人は無言でただ頷いた
  無論、標的にされる可能性のある建物に三人とも心当たりがあるのは今更言うまでもない
  不安を顕わにする二人を他所にアレクサーはその場ですっと姿勢を改め、瞳を閉ざすと見えざる小宇宙を研ぎ澄ました
  自分達の周囲に不穏な気配が漂っているか否か、少し時間を掛けて丁寧にスクリーニングする

  …俺達の周囲には誰もいない、か……。
  あくまでも罠である可能性を払拭できはしないが、この気配から考えると、多少の時間ならこの場を離れる事は可能かもしれない。

  恋人と妹をこの上なく愛するアレクサーに取って、かなりの苦渋を伴う決断を下す必要が今、差し迫っている
  暫く憂悶の表情で黙り込んでいたアレクサーは、意を決して顔を上げた


  「、そしてナターシャ。俺はこれから街の中心部に行って来る。…確認のためだ。勿論、確認を終えたらすぐに此処に戻って来る。
   今、この周辺には物騒な連中の気配は見当たらない。少なくとも、俺が行って戻って来る程度の時間は此処には何も起きない筈だ。
   だから、その間二人で待っていてもらえるだろうか?」


  口では大丈夫だと言いつつも、アレクサーがかなりの懸念を抱いている事はの目には明白だ

  …私達二人では確認に赴く事など到底無理だと、自分でもそう解っている。これはアレクサーにしか出来ない事だもの。
  だったら、私に出来る事は一つ。

  はアレクサーを真っ直ぐ見上げ、ゆっくりと一つ頷いて見せた


  「解ったわ、アレクサー。此処は任せて。私達は大丈夫。」


  の後背で、ナターシャもコクリと頭を縦に振る
  この男にしては非常に珍しい事だが、アレクサーは眉尻を少し下げて笑みを浮かべた


  「…済まない。では行って来る。すぐに戻るからなるべく此処から動かないようにしてくれ。この通りなら、まだ人通りがあるから安全な筈だ。」


  たっぷりと後ろ髪を引かれる思いを必死に振り切り、アレクサーは二人に背を向けて駆け出した
  黒煙に入り混じる様に街中へと消えたアレクサーの背中に向けて、はただその身の安泰の祈りを捧げるより他に為す術が無かった





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  ガルボイグラード中心部
  中心部、と言うと実に賑々しいイメージを抱きがちであるが、寡民の自治領であるブルーグラードの中心地と表現すれば、その実情は誰しもの想像に難くないであろう
  つまる所、小さな商店や名ばかりの公共施設が民家の間にぱらぱらと建つばかりで、ホテルやカフェのような小洒落た建造物のある街角を想像するには遠く及ばない
  それでも、ブルーグラードの民からすれば、此処が自分の国の中心地であり、且つ最も賑やかな場所である事に変わり無いのであるのだが
  そのガルボイグラードの中心部、とナターシャの勤務するNGOの白い建物の姿を視界に捉えたアレクサーは、咄嗟にその身を近くの建物の影に隠した
  NGOの白い建物――いや、嘗てそうであった物、と表現した方がこの場合は適切であるかもしれない――は暮れ掛けた陽の影を、複雑な形に地面に描き出していた
  アレクサーの記憶の中にあるNGO施設は4階建ての堅固な近代建築ビルであったのだが、今アレクサーの眼前に在るそれの高さは平屋建てにも及ばない
  四方のうち三方の壁はほぼ完全に崩れ去り、辛うじて建物の一角だけが白い壁面の面影を僅かに残すのみとなっている
  NGOに隣接する建物は半壊程度の被害を被っていたのだが、それらが半壊で済んだのは、隣接とは言えNGOの建物と若干の距離を挟んでいたからであろう

  …ブルーグラードは寡民の地故、近現代的な消防団体は存在しない
  従ってこのような場合には、被災家屋の近隣住民が協力して消火に当たるのが慣例となっていた
  謂わば住人たちのボランタリー精神に総てが委ねられている訳で、周囲の住人に手を貸してもらるか否かは被災者の日頃の行いに因る部分もある
  そう言った意味では、のNGOは近隣住民から大いに認められていたらしい
  アレクサーが辿り着いた時点で爆発から凡そ一時間弱が経過していたが、目立った火は粗方住民達によって消し止められていた
  あれほどの爆発を起こしながら住人達の消火能力で火がほぼ消し止められたのは、二つの原因が考えられる
  一つはNGOが可燃物を大量に有する類の施設では無かったと言う点。つまり連鎖爆発が起きなかったからである
  もう一つは、爆発によって建物自体がほぼ跡形も無く崩壊した事が挙げられる
  …つまり、燃えるべき物が十二分に残存するほどの生ぬるい爆発には現実は程遠かったと言う事だ
  ぶすぶすと黒煙の燻るNGO敷地を影から覗き、アレクサーはその目を閉ざした

  …何と言う事だ。この分では、中に居た者達はおそらく………。

  やナターシャが勤務しているから、と言う点を除いても、アレクサーはNGOの存在を理解し、同時に認めていた
  アレクサーの望む方向とは些か指針が異なると言えども、彼らがこの国の民の事を思い、民の生活や健康の向上を図っている事は明白であり、
  その活動自体も至って平和的・非暴力的な物であったからである
  ブルーグラードの為に働く者は、ブルーグラードの民に等しい
  であるが故に、この惨状はアレクサーに取っても相当な打撃であった
  …しかも、アレクサーはこの惨劇の犯人を知っている。それだけに、その悲しみと怒りは尚一層深くアレクサーの心を抉るのだ
  出来るならばすぐに飛び出して自分も消火を手伝いたい、その気持ちを必死に堪え、アレクサーは周囲の様子を探った
  相手に感付かれぬ様に細く張り巡らせたアレクサーの小宇宙の網には、犯人達の気配は掠めない
  さりとて、遠隔地に居るとナターシャの小宇宙にもこれと言った変化は感じられない
  恐らくは、首尾上々を得た犯人一味は既にガルボイグラードから遠ざかっているのであろう
  その手際の見事なまでの鮮やかさにギリギリと歯噛みをし、アレクサーは空を見上げた
  陽は何時の間にか没し、周囲は薄暗い

  …奴等も居ない。この暗さならあるいは………。

  アレクサーは夕闇に乗じ、物陰からNGOの敷地へと自然な足取りを装って移動した
  彼がまず最初にやったのは、目立たぬ様に焼け跡に隠れ、その顔と服に炭や灰を塗り込める事だった
  これで、消火に当たっている周囲の住民達に溶け込み、且つ自分の顔を隠す事が可能になる
  その上で、アレクサーは燃え残った瓦礫の撤去作業を手伝いつつ、NGO職員の安否と爆発の原因を同時進行で探索し始めた
  …無論、街外れで待っているとナターシャの周囲の警戒も怠りはしない

  アレクサーが作業を始めた段階で、既にかなりの人数と思しき犠牲者が路地に運ばれていた
  近隣の住民によって毛布を掛けられたそれを、アレクサーは一人づつ確認した
  中には目を背けたくなるような状態の死者も居る
  断腸の思いに眉根を寄せ、アレクサーはそれでも彼らを一人一人目の当たりにした
  まるで、己の罪業を再度身に刻み付けでもしているかの様に
  そのアレクサーの前に、更なる犠牲者が運ばれて来た
  この犠牲者は、どうやら男性の様だ
  運んで来た男が、遺体に毛布を掛けてくれ、とアレクサーに声を掛けまた引き返した
  脇に置いてあった毛布を広げ、アレクサーは慙愧の念と共に足元からゆっくりとその骸を被う
  遺体の腹部まで来た所で、アレクサーの手がピタリと止まった

  ……熱傷に隠れて見え難いが、腹部から胸部に残るこの傷は爆発に因る物じゃない…。
  恐らくは、この男は爆発で生き残った。そして、それを見咎めた犯人に殺され、証拠隠滅の為に火に放り込まれたと言う事か…

  事実であるなら、それは許されざる蛮行に他ならない
  常軌を逸するその手口と遺体の傷の形状から、アレクサーはその犯人を再度断定し、毛布を持つ己の拳を握り締めた

  ……セルゲイ……!

  アレクサー本人は面識が無いため判らなかったのだが、後日、この遺体はNGOのリーダーであると発表された
  結局、今回の爆発で現場に居たNGOメンバーの全員の『爆発と火災による死亡』が確認され、隣接家屋の住人も二人が犠牲となった
  火は完全に消し止められ、負傷した近隣住人が病院に運ばれた時点でこの日の作業は終結した
  爆発の原因については翌日以降に調査が行われるのだろうが、国に消防団体も存在しない現状ではこの調査もあまり期待出来る物とは言えないだろう
  結局、NGOの泣き寝入りに終わる結果となりそうであった
  …否、最早泣き寝入るメンバーすら存在しないのである
  犯行の手際だけでなく、後始末の付け方までまことに見事とでも言うより無い
  夕闇の被災地に立つアレクサーは怒りに肩を震わせ、静かにその瞳を閉ざし鎮魂の祈りを捧げた

  …達の許に戻らないといけないが……二人には何と説明するべきか……。

  アレクサーは深い溜め息を一つ落とし、その場から一歩、足を踏み出した
  ガチッ。
  その爪先が何かに当たり、鈍い音がアレクサーの耳を掠める
  アレクサーはその場に屈むと灰の中を手探りで掻き回し、手に当たったそれを拾い上げた
  闇の中で目を凝らし精査したそれは、どうやら何かの金属片の様であった
  アレクサーの長い指が金属片の緩い湾曲をなぞる

  …これは、弾薬の表面だ。恐らくはこれがこの爆発の原因か。………それにしても……。

  二年前までの立場が立場であるので、アレクサーが武器・火気類に関しても相当に明るいのは当然であった
  そのアレクサーの記憶が正しければ、この金属片はある種の弾薬の一部に違いないのだが、問題はこの弾薬がロシア本国製であり、
  ブルーグラードには一切流通していないはずの代物である、と言う事だった

  藍に染まった空と手元の金属片とを交互に見詰め、アレクサーは暫くの沈黙の後に街外れへの道を辿り始めた









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